2008年 03月 24日
続・教育における人種的多様性 |
先日のエントリーに対して、アメリカ発祥の地で研究中の先生からレスがあった。「あぁ、ちゃんとものを考えてる人が読むと、私の意見のテキトーさ加減がわかって勉強になるなあ」という感じでした。なので、以下いくつか言い訳と補足と感想。
実は私の中ですっきり理解できているのは、(人種が異なることによって生じる)意見の衝突を促進することがねらいになっている場合は、人種以外の要素でも意見の衝突は発生するので(前回のニート対セレブ参照)、人種を絶対的要素とすることを合理化できない、というところまで。
従って、私の理解(というか私の説?希望?)では、人種の考慮を合理化できるのは、意見の衝突を促進させる場合「だけ」になります。シアトルの事例は、その地域における白人の割合とその地域の学校の白人生徒の割合をできるだけ同じにせよ、という事件で、私には、同じにせよという要請そのものがアリなのか、という疑問があります。
うちの学生やゼミ生が短絡してしまうといけないので、IZW134先生には「何をいまさら」という感じになるが、あえて確認すると、私の上記の考えと、Brown判決は矛盾しない。「人種を理由に入学を断ることはできない」ということと「人種は統合されていなければならない」ということとは別の問題であるからだ。
その意味で、私の考えは、Brown判決には矛盾しないものの、Seattle判決はもちろん、Brown以降の流れ、特にSwann判決とは微妙な緊張関係に立つ。Swann判決が「人種を統合することは良いことだ」ということを示唆しているのだとすると(おそらくそこまで言っていないと思うが)、直ちにこれに賛同するのは難しい。
なぜか。選挙の場面を考えるとわかりやすい。有権者の3割が黒人なんだから、選ばれる議員の3割も黒人であるべきか。多くの黒人は「そうだ」と答えるだろう。しかしそれは有権者レベルでマイノリティであったものが、議会レベルで再生産されることを約束するにすぎない。Guinierのような活動家でさえ黒人多数選挙区問題から距離をとっているのはこのためである(リンク先のThe Tyranny of the Majority参照。ちなみにテキサスのファンキーな政治学者が、オバマ氏の躍進を黒人選挙区問題との関連で説明していて興味深い。リンク先、2008年1月26日の日記参照)。
そういうわけで、
Bakke:意見衝突がねらい、しかし割当制はだめだから違憲。
Grutter:意見衝突がねらい、人種を一要素として考慮で合憲。
Gratz:意見衝突がねらい、人種を理由に20点あげるのはやりすぎで違憲。
Seattle:人種統合がねらい、過去に「法的な」人種分離があったかどうかが不明なので、人種統合が正当化できず、機械的な処理も問題で違憲。
と考えるとすっきりしてきます。もっとも、3判決が意見衝突で、Seattleだけが人種統合という整理の仕方がざっくりしすぎじゃない?と言われれば、返す言葉がありませんので、言わないで下さい(汗)。ただSeattle事件で学校区側が人種的多様性を持ち出したのは、ご指摘のように、Grutter、Gratzを意識したからでしょうが、私は、その背後にある「意見衝突」を見逃している点で、学校区の戦略ミスとみる。
ロバーツ法廷意見がボロカスに批判したように、学校区の多様性の考え方は大雑把すぎるし、ラテン系がゼロでも多様性があると認定するような制度が、真に多様性を追求していると考えるのは難しい。多様な学生集団で何を成し遂げるかということが意識されていない点で、私の見方では大きなマイナスになる。
>一人だけ、批判人種理論に立ち、黒人であるDerrick Bellのみが反対意見に回っている。
上記の人種統合に対する私の疑問と関連しますが、統合そのものを目的としてない(あるいは統合された状態について異なったビジョンを持っている)人々がいて、余計、議論を複雑にしてます。
私が講義で使っている比喩でいえば、従来、人種統合とは「この劇の出演者に一人も黒人がいないのはおかしいじゃないか(だから俺らも出演させろ)」という異議申立てだった。ところが「黒人は黒人で黒人の文化に根ざした劇をやるから、政府はそのための資金援助をせよ」という主張も出てくるようになった。
で、後者の、「俺らは俺らでやるからさ〜」という主張がどうも私にはしっくり来ない。もちろん彼らは「白人のお仲間にしてもらうことが差別の解消か?黒人には黒人の文化や誇りってもんがあるだろう」と考えてるわけで、それも確かに一理ある。しかし、これを認めると無限に基準が出てくる(年齢、宗教、社会的身分など)ので、政府の義務の範囲が定まらなくなることの危惧が残る。
>アメリカのコンテクストにおいて、初等・中等教育の目的を「知識を・型を整理して覚える」ものとして規定してよいかも、よく分からない。
そこの大雑把すぎる整理は、日本を念頭に置いているので、アメリカの初等・中等教育の理解は、むしろ先生の方が正しいかと。そちらは、誰もがsomeone specialで、早いうちから意見表明の訓練させますからね。日本的に初等・中等教育を考えると、3判決が、余計に自分の中ですっきりしてくるという意味でした。
それにしても、人種問題自体が非常に理解・整理しにくいことに加えて、教育問題が絡むと、どういう教育が正しいのかという問題にも目配りしなくてはならず、本当に迷ってしまいます。教育問題は、いかに年号を語呂合わせするか、という小手先のテクニックだけではなく、どのような社会を子供達に残すのか、という問題でもあるわけで、それは結局、どういう社会が望ましいかという究極の難題に行き着きます。
活字論文では、こういう難題を避けて通ってしまうことが多いので、せめてブログ上のディスカッションでも、と思ったのですが、気軽に話を振って、いろいろ目配りしながら考えている先生を混乱させただけでした。どうもすんません。
実は私の中ですっきり理解できているのは、(人種が異なることによって生じる)意見の衝突を促進することがねらいになっている場合は、人種以外の要素でも意見の衝突は発生するので(前回のニート対セレブ参照)、人種を絶対的要素とすることを合理化できない、というところまで。
従って、私の理解(というか私の説?希望?)では、人種の考慮を合理化できるのは、意見の衝突を促進させる場合「だけ」になります。シアトルの事例は、その地域における白人の割合とその地域の学校の白人生徒の割合をできるだけ同じにせよ、という事件で、私には、同じにせよという要請そのものがアリなのか、という疑問があります。
うちの学生やゼミ生が短絡してしまうといけないので、IZW134先生には「何をいまさら」という感じになるが、あえて確認すると、私の上記の考えと、Brown判決は矛盾しない。「人種を理由に入学を断ることはできない」ということと「人種は統合されていなければならない」ということとは別の問題であるからだ。
その意味で、私の考えは、Brown判決には矛盾しないものの、Seattle判決はもちろん、Brown以降の流れ、特にSwann判決とは微妙な緊張関係に立つ。Swann判決が「人種を統合することは良いことだ」ということを示唆しているのだとすると(おそらくそこまで言っていないと思うが)、直ちにこれに賛同するのは難しい。
なぜか。選挙の場面を考えるとわかりやすい。有権者の3割が黒人なんだから、選ばれる議員の3割も黒人であるべきか。多くの黒人は「そうだ」と答えるだろう。しかしそれは有権者レベルでマイノリティであったものが、議会レベルで再生産されることを約束するにすぎない。Guinierのような活動家でさえ黒人多数選挙区問題から距離をとっているのはこのためである(リンク先のThe Tyranny of the Majority参照。ちなみにテキサスのファンキーな政治学者が、オバマ氏の躍進を黒人選挙区問題との関連で説明していて興味深い。リンク先、2008年1月26日の日記参照)。
そういうわけで、
Bakke:意見衝突がねらい、しかし割当制はだめだから違憲。
Grutter:意見衝突がねらい、人種を一要素として考慮で合憲。
Gratz:意見衝突がねらい、人種を理由に20点あげるのはやりすぎで違憲。
Seattle:人種統合がねらい、過去に「法的な」人種分離があったかどうかが不明なので、人種統合が正当化できず、機械的な処理も問題で違憲。
と考えるとすっきりしてきます。もっとも、3判決が意見衝突で、Seattleだけが人種統合という整理の仕方がざっくりしすぎじゃない?と言われれば、返す言葉がありませんので、言わないで下さい(汗)。ただSeattle事件で学校区側が人種的多様性を持ち出したのは、ご指摘のように、Grutter、Gratzを意識したからでしょうが、私は、その背後にある「意見衝突」を見逃している点で、学校区の戦略ミスとみる。
ロバーツ法廷意見がボロカスに批判したように、学校区の多様性の考え方は大雑把すぎるし、ラテン系がゼロでも多様性があると認定するような制度が、真に多様性を追求していると考えるのは難しい。多様な学生集団で何を成し遂げるかということが意識されていない点で、私の見方では大きなマイナスになる。
>一人だけ、批判人種理論に立ち、黒人であるDerrick Bellのみが反対意見に回っている。
上記の人種統合に対する私の疑問と関連しますが、統合そのものを目的としてない(あるいは統合された状態について異なったビジョンを持っている)人々がいて、余計、議論を複雑にしてます。
私が講義で使っている比喩でいえば、従来、人種統合とは「この劇の出演者に一人も黒人がいないのはおかしいじゃないか(だから俺らも出演させろ)」という異議申立てだった。ところが「黒人は黒人で黒人の文化に根ざした劇をやるから、政府はそのための資金援助をせよ」という主張も出てくるようになった。
で、後者の、「俺らは俺らでやるからさ〜」という主張がどうも私にはしっくり来ない。もちろん彼らは「白人のお仲間にしてもらうことが差別の解消か?黒人には黒人の文化や誇りってもんがあるだろう」と考えてるわけで、それも確かに一理ある。しかし、これを認めると無限に基準が出てくる(年齢、宗教、社会的身分など)ので、政府の義務の範囲が定まらなくなることの危惧が残る。
>アメリカのコンテクストにおいて、初等・中等教育の目的を「知識を・型を整理して覚える」ものとして規定してよいかも、よく分からない。
そこの大雑把すぎる整理は、日本を念頭に置いているので、アメリカの初等・中等教育の理解は、むしろ先生の方が正しいかと。そちらは、誰もがsomeone specialで、早いうちから意見表明の訓練させますからね。日本的に初等・中等教育を考えると、3判決が、余計に自分の中ですっきりしてくるという意味でした。
それにしても、人種問題自体が非常に理解・整理しにくいことに加えて、教育問題が絡むと、どういう教育が正しいのかという問題にも目配りしなくてはならず、本当に迷ってしまいます。教育問題は、いかに年号を語呂合わせするか、という小手先のテクニックだけではなく、どのような社会を子供達に残すのか、という問題でもあるわけで、それは結局、どういう社会が望ましいかという究極の難題に行き着きます。
活字論文では、こういう難題を避けて通ってしまうことが多いので、せめてブログ上のディスカッションでも、と思ったのですが、気軽に話を振って、いろいろ目配りしながら考えている先生を混乱させただけでした。どうもすんません。
by eastriver46
| 2008-03-24 01:26
| 英米法関係