2009年 06月 14日
西野喜一『裁判員制度の正体』を読む |
北陸地域に陪審裁判に詳しい人がいないせいか、陪審との比較という観点から裁判員制度について解説してください、と頼まれることが多くなった(ちなみに裁判員制度は英米の陪審よりも大陸の参審制度に近いので、陪審とのアナロジーで何でも説明することができる訳ではない)。
今年は法学類の初年次教育の担当ということもあって、裁判員制度について解説するという役回りが学内でも回ってきた。そこで、新入生が、裁判員制度について否定的に考えたり報告する際に、かなり読まれている本ということで、西野喜一「裁判員制度の正体」を私も隅から隅まで読んでみた。
私は、以前も書いたように、制度にいろいろと不満な点があるものの、このまま市民参加を一切認めない現行制度よりかは、裁判員制度の方が遥かにましだ、という立場なので、この本の主張は受け入れがたいものが多いのだが、以下では、どうしても気になった3つの点についてのみ言及したい。
第1に、5ページから6ページにかけて、とても重要なことが書かれている。すなわち、著者は、司法への市民参加推進論者は、欧米の事例を持ち出して、日本だけが遅れているということを主張するが、私たちは、裁判を専門家に委ねるという政策を選んだのであり、日本だけが遅れているというのは完全な誤りである、という。
しかし、我々は、未だかつて「裁判は専門家に委ねよう」と主体的に選択した記憶がない。ましてや、欧米諸国では何らかの市民参加が行われており、いわゆる先進国の中では何の市民参加も取り入れていないのは日本くらいのものですが、それでも専門家の方が頼りになると信じるので今のままで良いです、と選択した記憶はない。
仮に、戦後60年以上、市民参加を実現させる立法が成立しなかったから、結果的には国民は現行制度を容認していたと言えるとしても、そのことをもって、市民が主体的に政策判断として現行制度を選択したと考えるのは、論理の飛躍である。「お上は国民の行動をこういう風に(都合良く)解釈するのか(著者は元裁判官)」ということがよくわかる実例である。
第2に、101から108ページにかけて、更新手続きの問題が取り上げられているが、ここの記述にも問題を感じた。更新手続きとは、裁判員が急病などの事情で途中で入れ替わる場合である。この場合、公判の全てを見ていない途中参加の裁判員が混じることがあるので、著者は、このような裁判員に正しい判断ができるのか、と批判する。
この批判自体は正当なものであると私も考えるが、問題は、裁判官はこのような更新をすることに何の問題もないと考えている点である。実際は、現行法でも、転勤などの理由で、事件の途中で裁判官がかわることがあるのだが、裁判官は、職業上の義務としてこれまでの書面にすべて目を通すから問題はない、としている。
アメリカでは、事件の途中で裁判官が交代してしまうということはなく、もし交代する場合は、事件を最初からやり直すのが普通である。裁判の証拠は、紙の上に書かれた発言の記録だけでなく、その発言がどのようになされたかという「所作」も含まれるという考えがあるからである。
こうした考えを示す1つの例は、アメリカの法廷における、証言席の位置である。証人の証言席が、陪審席と裁判官の席の間にあり、証人が証言をする様子をつぶさに観察できる位置に設置されているのは、紙の上の発言だけでなく、証人の立ち振る舞い、額の汗、戸惑いの表情を見逃さないためである。
また、事実審理において何がおこったのかを一番よく知っているのは、その場にいた裁判官であるから、彼(彼女)の判断は、明白な誤りがない限り、上級審で覆されることはない。こうした事実審裁判官の判断の尊重の伝統も、裁判官が途中で交代することがないという前提に基づいている。
このような見方からすれば、日本の裁判官の更新は、裁判員の更新と同様に大きな問題になるはずであるが、著者は全く問題とは考えていないようである。この自信はおそらく専門家としての能力に由来するのであろうが、それは書類をさぼらずきちんと読むという能力であって、正しい事実認定とは何かという問題意識は、ここでは完全に欠落している。
第3に、第2で取り上げた、裁判員の更新はだめだけども裁判官なら問題はない、という思考に見られるように、この本全体を貫く、プロの判断への信頼と、裏返しとしての素人への不信感も、とても気になるところである。元裁判官という肩書きを公表している著者の場合はなおさらである。
インターネット上でも、プロの判断は信頼するべきで、市民を入れたら良くなるというものではない、高度に専門的な事柄に、何の訓練も受けていない市民を参加させても無益である、という意見が見られる。こうした意見は、私の考えでは、専門家という言葉を広くとらえすぎた短絡である。
ここでは、技術の専門家と判断の専門家という区別が有益でだろう。例えば、20年のキャリアを持つ加賀友禅の職人は、その技術や品質を見抜く力量において信頼してよいし、職人はいつもかわらず同じ品質の製品を作り出すことができるだろう。
これに対して、このような行為を犯罪として処罰すべきか、このような行為にどれくらいの刑罰を与えるべきか、という判断を伴う事柄について、専門家の判断を常に尊重してよいかというと、必ずしもそうとは言えない。
刑事法だと罪刑法定主義の問題があるので、セクハラによる損害賠償請求事件を考えてみよう。多くの人が知っているように、例えば30年前に、スケベな課長がOLの尻を触ったとしても、それは職場では「よくあること」であったが、今では、社会状況が大きく変わって、直ちに大問題になる。
このように、ある行為を評価する基準が、時代によって変わっているということはしばしばあることだが、その基準を運用する者が、昔の基準にこだわり続けたり、時代の変化に対応したとしても、その方向性が間違っていることもあり得る。とりわけ裁判官は身分保障が強固であるから、間違った方向に進んでも誰も止められない。
従って、ある基準に従って判断をする専門家と言っても、その基準が流動的な場合は、基準と判断の適合性の審査を、自己採点ではなく第三者に委託した上で、自分の仕事の正当性のお墨付きを得るように行動する方が、専門家の判断に対する信頼を向上するためには、理にかなった行動なのだ。
この意味で、私見では、裁判官こそ、自らの信頼向上のために、積極的に市民の参加を求めるべきではないか。とりわけ、この行為を罰するか、この人に執行猶予を与えるかなどの判断は、この国ではあなたの行為は許されませんとか、我々の社会では、あなたのような人には敗者復活のチャンスを与えます、という判断をしているのと同じである。
つまり、犯罪を認定し、量刑を行うということは、刑事裁判という過程を通じて、この国はこういう国なのです、という態度を示しているのであり、そのような行為について、主権者である国民が関与できない、というのは、少なくとも理念的には、国民主権原理を否定していると言わねばならない。
今年は法学類の初年次教育の担当ということもあって、裁判員制度について解説するという役回りが学内でも回ってきた。そこで、新入生が、裁判員制度について否定的に考えたり報告する際に、かなり読まれている本ということで、西野喜一「裁判員制度の正体」を私も隅から隅まで読んでみた。
私は、以前も書いたように、制度にいろいろと不満な点があるものの、このまま市民参加を一切認めない現行制度よりかは、裁判員制度の方が遥かにましだ、という立場なので、この本の主張は受け入れがたいものが多いのだが、以下では、どうしても気になった3つの点についてのみ言及したい。
第1に、5ページから6ページにかけて、とても重要なことが書かれている。すなわち、著者は、司法への市民参加推進論者は、欧米の事例を持ち出して、日本だけが遅れているということを主張するが、私たちは、裁判を専門家に委ねるという政策を選んだのであり、日本だけが遅れているというのは完全な誤りである、という。
しかし、我々は、未だかつて「裁判は専門家に委ねよう」と主体的に選択した記憶がない。ましてや、欧米諸国では何らかの市民参加が行われており、いわゆる先進国の中では何の市民参加も取り入れていないのは日本くらいのものですが、それでも専門家の方が頼りになると信じるので今のままで良いです、と選択した記憶はない。
仮に、戦後60年以上、市民参加を実現させる立法が成立しなかったから、結果的には国民は現行制度を容認していたと言えるとしても、そのことをもって、市民が主体的に政策判断として現行制度を選択したと考えるのは、論理の飛躍である。「お上は国民の行動をこういう風に(都合良く)解釈するのか(著者は元裁判官)」ということがよくわかる実例である。
第2に、101から108ページにかけて、更新手続きの問題が取り上げられているが、ここの記述にも問題を感じた。更新手続きとは、裁判員が急病などの事情で途中で入れ替わる場合である。この場合、公判の全てを見ていない途中参加の裁判員が混じることがあるので、著者は、このような裁判員に正しい判断ができるのか、と批判する。
この批判自体は正当なものであると私も考えるが、問題は、裁判官はこのような更新をすることに何の問題もないと考えている点である。実際は、現行法でも、転勤などの理由で、事件の途中で裁判官がかわることがあるのだが、裁判官は、職業上の義務としてこれまでの書面にすべて目を通すから問題はない、としている。
アメリカでは、事件の途中で裁判官が交代してしまうということはなく、もし交代する場合は、事件を最初からやり直すのが普通である。裁判の証拠は、紙の上に書かれた発言の記録だけでなく、その発言がどのようになされたかという「所作」も含まれるという考えがあるからである。
こうした考えを示す1つの例は、アメリカの法廷における、証言席の位置である。証人の証言席が、陪審席と裁判官の席の間にあり、証人が証言をする様子をつぶさに観察できる位置に設置されているのは、紙の上の発言だけでなく、証人の立ち振る舞い、額の汗、戸惑いの表情を見逃さないためである。
また、事実審理において何がおこったのかを一番よく知っているのは、その場にいた裁判官であるから、彼(彼女)の判断は、明白な誤りがない限り、上級審で覆されることはない。こうした事実審裁判官の判断の尊重の伝統も、裁判官が途中で交代することがないという前提に基づいている。
このような見方からすれば、日本の裁判官の更新は、裁判員の更新と同様に大きな問題になるはずであるが、著者は全く問題とは考えていないようである。この自信はおそらく専門家としての能力に由来するのであろうが、それは書類をさぼらずきちんと読むという能力であって、正しい事実認定とは何かという問題意識は、ここでは完全に欠落している。
第3に、第2で取り上げた、裁判員の更新はだめだけども裁判官なら問題はない、という思考に見られるように、この本全体を貫く、プロの判断への信頼と、裏返しとしての素人への不信感も、とても気になるところである。元裁判官という肩書きを公表している著者の場合はなおさらである。
インターネット上でも、プロの判断は信頼するべきで、市民を入れたら良くなるというものではない、高度に専門的な事柄に、何の訓練も受けていない市民を参加させても無益である、という意見が見られる。こうした意見は、私の考えでは、専門家という言葉を広くとらえすぎた短絡である。
ここでは、技術の専門家と判断の専門家という区別が有益でだろう。例えば、20年のキャリアを持つ加賀友禅の職人は、その技術や品質を見抜く力量において信頼してよいし、職人はいつもかわらず同じ品質の製品を作り出すことができるだろう。
これに対して、このような行為を犯罪として処罰すべきか、このような行為にどれくらいの刑罰を与えるべきか、という判断を伴う事柄について、専門家の判断を常に尊重してよいかというと、必ずしもそうとは言えない。
刑事法だと罪刑法定主義の問題があるので、セクハラによる損害賠償請求事件を考えてみよう。多くの人が知っているように、例えば30年前に、スケベな課長がOLの尻を触ったとしても、それは職場では「よくあること」であったが、今では、社会状況が大きく変わって、直ちに大問題になる。
このように、ある行為を評価する基準が、時代によって変わっているということはしばしばあることだが、その基準を運用する者が、昔の基準にこだわり続けたり、時代の変化に対応したとしても、その方向性が間違っていることもあり得る。とりわけ裁判官は身分保障が強固であるから、間違った方向に進んでも誰も止められない。
従って、ある基準に従って判断をする専門家と言っても、その基準が流動的な場合は、基準と判断の適合性の審査を、自己採点ではなく第三者に委託した上で、自分の仕事の正当性のお墨付きを得るように行動する方が、専門家の判断に対する信頼を向上するためには、理にかなった行動なのだ。
この意味で、私見では、裁判官こそ、自らの信頼向上のために、積極的に市民の参加を求めるべきではないか。とりわけ、この行為を罰するか、この人に執行猶予を与えるかなどの判断は、この国ではあなたの行為は許されませんとか、我々の社会では、あなたのような人には敗者復活のチャンスを与えます、という判断をしているのと同じである。
つまり、犯罪を認定し、量刑を行うということは、刑事裁判という過程を通じて、この国はこういう国なのです、という態度を示しているのであり、そのような行為について、主権者である国民が関与できない、というのは、少なくとも理念的には、国民主権原理を否定していると言わねばならない。
by eastriver46
| 2009-06-14 00:43
| 英米法関係