2007年 08月 14日
井上薫「司法のしゃべりすぎ」を読む |
裁判員制度と陪審制度の比較を行う大学院の講義で、新書「司法のしゃべりすぎ」の話になったので、一度、内容を徹底的に検討しようということになった。内容はだいたい知っていたが、講義にあわせて、自分でも購入して、隅から隅までじっくり読んだ。
出発点の架空事例はXがYに対して不法行為訴訟を提起したというもの。Yは不法行為の事実そのものがなかったとして争っている。裁判所は、不法行為があったことを認定しながら、除斥期間を理由に原告敗訴の結論とした。
この場合、Yは不法行為自体はあったことにされたので、訴訟の結論に納得できないが、訴訟自体は勝訴しているので控訴できない。原告敗訴の結論は、除斥期間を理由としているのであるから、不法行為の事実認定をした部分は蛇足であるばかりか、不法行為の事実はなかったと主張するYにとって、この蛇足は大きな不利益になると、筆者は批判する。
訴訟でこのような問題が発生することは否定できないので、こうした問題提起そのものは正しいと言ってよい。しかしながら、Yが気の毒だと思えるのは、架空事例で、我々が客観的にYに味方できるからである。従って、裁判所は、結論に必要な一点のみを言えば良く、事実認定部分は蛇足どころが有害ですらあるという筆者の主張には無理がある。
筆者が実例としてあげたものの中では、三浦氏の事例を考えるとわかりやすい。姿さらし連行は違法だが、訴え自体は時効で棄却、という場合、裁判所が、時効の部分のみ判断すると、姿さらし連行が、違法なのかどうかがわからないままになる。筆者は、ここでも、時効の判断のみで良いとするが、それでは刑事実務が改善されない。
靖国参拝の場合でも、損害賠償は認められなくても、参拝自体は憲法違反だとメッセージを送ることは可能なはずだ。裁判官が違憲の判断をしたのであれば、訴訟の結論とは別にそれを伝えなければ、靖国に参拝しようとする閣僚に対する牽制にならない。裁判所が、原告の主張、被告の主張を入力し、リターンキーを押せば結論が出てくるようなデータベースならば、筆者の主張も成り立つだろうが、我々はそのような裁判所を望むだろうか。
この著者は、執筆当時、現役の裁判官だったため、現役の裁判官による裁判批判として、一部、好意的に受け入れられたようだ。しかし、内容をじっくりと読めば、いろいろと納得できない部分も多い。その点では、前回書いた初学者ゼミの書評課題でも、課題図書として取り上げておけば良かったと思う。
肩書きやアマゾンなどの好意的な評価とは別に、自分の頭で考え抜いて本を読めるかどうか。書評を書くために、最も必要な能力が試される本であった。院生との雑談から始まった今回の講義だったが、裁判所の役割を考える上でも、批判的に読む重要性を考える上でも有意義であった。
出発点の架空事例はXがYに対して不法行為訴訟を提起したというもの。Yは不法行為の事実そのものがなかったとして争っている。裁判所は、不法行為があったことを認定しながら、除斥期間を理由に原告敗訴の結論とした。
この場合、Yは不法行為自体はあったことにされたので、訴訟の結論に納得できないが、訴訟自体は勝訴しているので控訴できない。原告敗訴の結論は、除斥期間を理由としているのであるから、不法行為の事実認定をした部分は蛇足であるばかりか、不法行為の事実はなかったと主張するYにとって、この蛇足は大きな不利益になると、筆者は批判する。
訴訟でこのような問題が発生することは否定できないので、こうした問題提起そのものは正しいと言ってよい。しかしながら、Yが気の毒だと思えるのは、架空事例で、我々が客観的にYに味方できるからである。従って、裁判所は、結論に必要な一点のみを言えば良く、事実認定部分は蛇足どころが有害ですらあるという筆者の主張には無理がある。
筆者が実例としてあげたものの中では、三浦氏の事例を考えるとわかりやすい。姿さらし連行は違法だが、訴え自体は時効で棄却、という場合、裁判所が、時効の部分のみ判断すると、姿さらし連行が、違法なのかどうかがわからないままになる。筆者は、ここでも、時効の判断のみで良いとするが、それでは刑事実務が改善されない。
靖国参拝の場合でも、損害賠償は認められなくても、参拝自体は憲法違反だとメッセージを送ることは可能なはずだ。裁判官が違憲の判断をしたのであれば、訴訟の結論とは別にそれを伝えなければ、靖国に参拝しようとする閣僚に対する牽制にならない。裁判所が、原告の主張、被告の主張を入力し、リターンキーを押せば結論が出てくるようなデータベースならば、筆者の主張も成り立つだろうが、我々はそのような裁判所を望むだろうか。
この著者は、執筆当時、現役の裁判官だったため、現役の裁判官による裁判批判として、一部、好意的に受け入れられたようだ。しかし、内容をじっくりと読めば、いろいろと納得できない部分も多い。その点では、前回書いた初学者ゼミの書評課題でも、課題図書として取り上げておけば良かったと思う。
肩書きやアマゾンなどの好意的な評価とは別に、自分の頭で考え抜いて本を読めるかどうか。書評を書くために、最も必要な能力が試される本であった。院生との雑談から始まった今回の講義だったが、裁判所の役割を考える上でも、批判的に読む重要性を考える上でも有意義であった。
by eastriver46
| 2007-08-14 23:04
| 日記