2015年 11月 19日
東川の英語力はどのくらいか |
11月から行き始めた近所の教会でやっているESL。最初は上から2番目のクラスにとりあえず参加したが、12日から、本来の最上級のクラスに行っている。最上級ということで、ついていけなかったらどうしようかと思っていたが、行ってみれば、授業で行う課題は難しいものではなかった。
難しいと感じたのは先生の発音。火曜日のクラスと違って、男性の、寡黙でボソボソ、しかも相手が外国人でもおかまいなしに普通のスピードで喋るタイプの先生で、かなり注意して聞かないと聞き取れない。しかし、これこそ私が求めていた難しさなので、なんとか乗り越えていきたい。
授業でやる課題は、日本でちゃんと英語教育を受けてきてそれなりの成績だった人にとってはさして難しいものではない。主語と動詞が一致していないものを訂正(動詞の原形か3単現をつけるか)したり、目的語で不定詞と動名詞を正しく選ぶ、句と節を書き直すなど、基本的なものばかりだ。
中にはNeither A nor Bで動詞を選ばせるというようなものも混じっているが、長く塾講師で英語を教えていた身からすれば、AとBが単数名詞なら単数扱いとわかっているので、そこはためらわずに正解を出せる。先生は、その様子を見て、君はその辺の高校生よりずっと良くできていると言ってくれた。
そうは言っても、私がその辺の高校生をつかまえて、普通に会話できるかというとそうではない。もちろん、今の私なら、わからないときは「ゆっくり喋って」と要求できるだけの場数を踏んできたので、会話は成立するし、もしかしたら年齢の優位も手伝って、かなり深い議論もできるかもしれない。
しかしアメリカの高校生同士が気軽に雑談しているのを聞いて、それを完全に理解できるかというと、高校生の話題についていけないのを差し引いても、多分いろいろと手こずるに違いない。その意味では、やはり私の英語はまだまだその程度ということだろう。
ただ、私がここで強調しておきたいのは、だから日本の英語教育はダメかというと、それは決してそうじゃないということだ。ESLの先生が高く評価してくれたように、日本でしっかりと英語を勉強していれば、それはやはりある程度の英語力がちゃんと身についているということなのである。
実際、この最上級クラスでも、また火曜日の上から2番目のクラスでも、文法の練習で、普通に高校入試を突破した人のレベルでつまづくことはまずないと言っていいほど、基本的なことばかりが教えられている。そして、それすらできていない外国人は、実はいっぱいいるのである。
ところが「それすらできていない外国人」が、文法が間違っていようが、バンバン英語で喋りまくるので、教室の他の日本人(ESLには企業の派遣で来た駐在員の奥さんが結構在籍している)は萎縮しているのか、静かなままなのだ。これは実にもったいないことである。
考えられるのは、1971年生まれの私かそれに近い世代では、英語は中学生から習うものであり、英語力とは英会話の力ではなく、英文法に関する「学力」という形で評価されてきたことが大きいのではないか。すなわち、唯一無二の絶対的に正しい「正解」があり、それ以外は間違っているという感覚である。
なので、我々の世代では、正しい英語でなければならないという呪縛が常につきまとい、練習量が極端に不足している英会話では、何も話せない=英語ができない、ということになるのである。この意味で、小学生から、文法はともかく会話の手段として小学生から英語を学ぶことは、私は大賛成である。
私は、中学生や高校生という早い時期から、ヘヴィメタルという欧米の文化に傾倒していったことで、勉強としての英語から離脱していったために、この呪縛から逃れたことが大きかった。加えて、英語の最良の試験対策は、教科書の試験範囲を30回朗読することに尽きる、と喝破した親父の影響が大きい。
英文法学者として文法の理論を極めるのであればともかく、中学レベルの試験対策であれば、試験範囲を30回朗読すれば、そこは理屈抜きに、be interestedとくれば、あとに続く前置詞を選ぶ問題で、自動的にfromやonではなくinと答えられ、この要領で、文法関係の問題はそれでほぼ満点が取れるのである。
これは、英文法の研究者からすれば邪道かもしれないが、当の中学生にはかなり精神的に楽になる方法である。そしてなにより大事なことであるが、少なくとも、酷い点をとって、英語が嫌いになるということを避けられるのである。このことは非常に重要であったし、大学で教えるようになって痛感している。
というのは、留学などで、少々英会話の楽しさを知った学生が、日本の英語教育はダメだと批判するのを何度も聞いてきたが、そういう学生に限ってgonnaなどの表現や、You areをU rと書くようなことばかり覚えて、肝心の文法の知識は、本当に国立大学の学生なのか、と思うレベルが少なくないからだ。
こういう英会話の楽しさをわかった学生が、ちゃんとした英文法を身につけて会話できるようになれば良いのだが、実際はそうなっていないのである。だから日本人の英語の問題とは、ちゃんと読めて書けるという英語力と、聞けて話せるという英語力がスムーズにつながっていないところにあるのではないか。
このことをきちんと理解しないまま、話せない英語はダメだ、文法中心の今の英語教育は無意味と短絡して、口語表現やスラングを覚える方向に行ってしまうのは危険ではないか。通訳になるのならともかくも、ほとんどの人にとっては、ちゃんと読めて、しっかり書ける力の方が重要なはずだ。
私も別に、外国人としての英語力が基準のESLで、そこの先生に褒めてもらったくらいで、ネイティヴの高校生並みだとお墨付きをもらったとは、毛頭考えていない。ただ先生の評価要素の1つとして、文法の力があったのは確かであり、読めて書けるから、それが、聞けて話せるにつながるのである。
小学校低学年から英語を身につけようとする場合と、すでに高校・大学レベルにある人では、当然アプローチは異なってくるだろうが、現在大学生ならば、私は断然英文法の徹底的な復習と語彙の獲得を勧める。文字で読んだり書けたりしないことが、聞けたり話せたりすることはないのである。
難しいと感じたのは先生の発音。火曜日のクラスと違って、男性の、寡黙でボソボソ、しかも相手が外国人でもおかまいなしに普通のスピードで喋るタイプの先生で、かなり注意して聞かないと聞き取れない。しかし、これこそ私が求めていた難しさなので、なんとか乗り越えていきたい。
授業でやる課題は、日本でちゃんと英語教育を受けてきてそれなりの成績だった人にとってはさして難しいものではない。主語と動詞が一致していないものを訂正(動詞の原形か3単現をつけるか)したり、目的語で不定詞と動名詞を正しく選ぶ、句と節を書き直すなど、基本的なものばかりだ。
中にはNeither A nor Bで動詞を選ばせるというようなものも混じっているが、長く塾講師で英語を教えていた身からすれば、AとBが単数名詞なら単数扱いとわかっているので、そこはためらわずに正解を出せる。先生は、その様子を見て、君はその辺の高校生よりずっと良くできていると言ってくれた。
そうは言っても、私がその辺の高校生をつかまえて、普通に会話できるかというとそうではない。もちろん、今の私なら、わからないときは「ゆっくり喋って」と要求できるだけの場数を踏んできたので、会話は成立するし、もしかしたら年齢の優位も手伝って、かなり深い議論もできるかもしれない。
しかしアメリカの高校生同士が気軽に雑談しているのを聞いて、それを完全に理解できるかというと、高校生の話題についていけないのを差し引いても、多分いろいろと手こずるに違いない。その意味では、やはり私の英語はまだまだその程度ということだろう。
ただ、私がここで強調しておきたいのは、だから日本の英語教育はダメかというと、それは決してそうじゃないということだ。ESLの先生が高く評価してくれたように、日本でしっかりと英語を勉強していれば、それはやはりある程度の英語力がちゃんと身についているということなのである。
実際、この最上級クラスでも、また火曜日の上から2番目のクラスでも、文法の練習で、普通に高校入試を突破した人のレベルでつまづくことはまずないと言っていいほど、基本的なことばかりが教えられている。そして、それすらできていない外国人は、実はいっぱいいるのである。
ところが「それすらできていない外国人」が、文法が間違っていようが、バンバン英語で喋りまくるので、教室の他の日本人(ESLには企業の派遣で来た駐在員の奥さんが結構在籍している)は萎縮しているのか、静かなままなのだ。これは実にもったいないことである。
考えられるのは、1971年生まれの私かそれに近い世代では、英語は中学生から習うものであり、英語力とは英会話の力ではなく、英文法に関する「学力」という形で評価されてきたことが大きいのではないか。すなわち、唯一無二の絶対的に正しい「正解」があり、それ以外は間違っているという感覚である。
なので、我々の世代では、正しい英語でなければならないという呪縛が常につきまとい、練習量が極端に不足している英会話では、何も話せない=英語ができない、ということになるのである。この意味で、小学生から、文法はともかく会話の手段として小学生から英語を学ぶことは、私は大賛成である。
私は、中学生や高校生という早い時期から、ヘヴィメタルという欧米の文化に傾倒していったことで、勉強としての英語から離脱していったために、この呪縛から逃れたことが大きかった。加えて、英語の最良の試験対策は、教科書の試験範囲を30回朗読することに尽きる、と喝破した親父の影響が大きい。
英文法学者として文法の理論を極めるのであればともかく、中学レベルの試験対策であれば、試験範囲を30回朗読すれば、そこは理屈抜きに、be interestedとくれば、あとに続く前置詞を選ぶ問題で、自動的にfromやonではなくinと答えられ、この要領で、文法関係の問題はそれでほぼ満点が取れるのである。
これは、英文法の研究者からすれば邪道かもしれないが、当の中学生にはかなり精神的に楽になる方法である。そしてなにより大事なことであるが、少なくとも、酷い点をとって、英語が嫌いになるということを避けられるのである。このことは非常に重要であったし、大学で教えるようになって痛感している。
というのは、留学などで、少々英会話の楽しさを知った学生が、日本の英語教育はダメだと批判するのを何度も聞いてきたが、そういう学生に限ってgonnaなどの表現や、You areをU rと書くようなことばかり覚えて、肝心の文法の知識は、本当に国立大学の学生なのか、と思うレベルが少なくないからだ。
こういう英会話の楽しさをわかった学生が、ちゃんとした英文法を身につけて会話できるようになれば良いのだが、実際はそうなっていないのである。だから日本人の英語の問題とは、ちゃんと読めて書けるという英語力と、聞けて話せるという英語力がスムーズにつながっていないところにあるのではないか。
このことをきちんと理解しないまま、話せない英語はダメだ、文法中心の今の英語教育は無意味と短絡して、口語表現やスラングを覚える方向に行ってしまうのは危険ではないか。通訳になるのならともかくも、ほとんどの人にとっては、ちゃんと読めて、しっかり書ける力の方が重要なはずだ。
私も別に、外国人としての英語力が基準のESLで、そこの先生に褒めてもらったくらいで、ネイティヴの高校生並みだとお墨付きをもらったとは、毛頭考えていない。ただ先生の評価要素の1つとして、文法の力があったのは確かであり、読めて書けるから、それが、聞けて話せるにつながるのである。
小学校低学年から英語を身につけようとする場合と、すでに高校・大学レベルにある人では、当然アプローチは異なってくるだろうが、現在大学生ならば、私は断然英文法の徹底的な復習と語彙の獲得を勧める。文字で読んだり書けたりしないことが、聞けたり話せたりすることはないのである。
by eastriver46
| 2015-11-19 18:28
| 日記