2010年 03月 19日
ダメ社員はダメ人間か:平林都のマナー研修について |
「エチカの鏡」でヨコミネ式と並んで人気なのが、平林都の職場のマナー(接遇)研修である。ヨコミネ式については、番組の作り方や、過度に信奉する人が出てこないだろうか、という点でちょっと疑問があるが、考え方そのものは、概ね私も共感できる。これに対して平林のマナー研修は、問題だらけである。
番組では、平林が研修先の社員に向かって怒鳴りつける(時には罵倒する)場面が良く出てくる。平林流のスパルタ研修ということになっているのが、直後に優しい口調に戻り、そしてまた突然烈火の如く怒鳴りつけるところから見て、腹が立ったから怒っているのではなく、意図的にああいうスタイルをとっているのだろう。
本人が自覚しているのかどうか不明だが、緊張と緩和をめまぐるしく体験させるのは、洗脳の基本的な原理と同じである。突然罵倒され気が動転しているところに、立て続けに色々と命令され、うまく出来ると褒められて、を繰り返すうちに、この人の言うことを聞くしかない、聞いておけば間違いないと思うようになるのである。
さらに問題なのは、彼女のマナー研修は、歯をみせる笑顔を作ることや、言葉遣いなど、技術的なことは教えるが、どうすれば魅力的な笑顔になるかということを教えない。そして本当の笑顔が出ないのは真剣味が足りないからだという具合に、ダメ人間の烙印を押して罵倒するのである。
つまり彼女の研修は、1:私の言うことは絶対であり反論は許しません、2:誰でも絶対に結果を出すことが出来るはずである、3:結果を出せないとしたらそれはあなた自身に問題がある、という考えに貫かれている。これは経営者にとって魅力的な研修であるが、社員にとっては必ずしも有意義なものではない。
というのは、この研修は、社員の能力を査定し、うまくこなせなかったものを「使えない社員」として切る口実に利用できるが、社員にとっては、彼女が期待した成果をあげられないことで、社員としてではなく人間としてダメであるかのように批判されるからである。罪と罰のバランスが悪すぎるのである。
もちろん企業はボランティア団体ではないので、使えないダメ社員が冷遇されたり、場合によっては解雇されることもあり得る。しかし、そのダメ社員はその会社のその職場にあっていないだけかもしれないのであって、ダメ人間かどうかは別の問題である(なお、私はどんな職場でもパッとしない人がいる可能性は否定しない)。
研修後その企業の売り上げが必ずあがるらしく、彼女のやり方は正しいものと受け止められており、番組も大反響らしい。経営者であれば売り上げ上昇につながることは正しいことであるが、視聴者のほとんどは雇われる側のはずで、彼らからも大いに支持されているとしたら、それは社会の懐が小さくなっているように思える。
番組の評判が良いということは、平林流を受け入れ「使える人間」と認定されることが「良いこと」とされているということに他ならない。しかし現実に、パッとしない、冴えない人たちは存在しているのであって、平林流の研修(あるいは平林的価値)は彼らを評価する軸を提供していない。
人を、使える人と使えない人に分断していく番組に大きな支持が集まるような社会では、使える人間と思われようという大変な圧力が発生し、それは多くの人にとって、大変なストレスになっているはずである。お辞儀の角度と時間が、人間性に直結すると考えるような社会が健全であるはずはないのである。
番組では、平林が研修先の社員に向かって怒鳴りつける(時には罵倒する)場面が良く出てくる。平林流のスパルタ研修ということになっているのが、直後に優しい口調に戻り、そしてまた突然烈火の如く怒鳴りつけるところから見て、腹が立ったから怒っているのではなく、意図的にああいうスタイルをとっているのだろう。
本人が自覚しているのかどうか不明だが、緊張と緩和をめまぐるしく体験させるのは、洗脳の基本的な原理と同じである。突然罵倒され気が動転しているところに、立て続けに色々と命令され、うまく出来ると褒められて、を繰り返すうちに、この人の言うことを聞くしかない、聞いておけば間違いないと思うようになるのである。
さらに問題なのは、彼女のマナー研修は、歯をみせる笑顔を作ることや、言葉遣いなど、技術的なことは教えるが、どうすれば魅力的な笑顔になるかということを教えない。そして本当の笑顔が出ないのは真剣味が足りないからだという具合に、ダメ人間の烙印を押して罵倒するのである。
つまり彼女の研修は、1:私の言うことは絶対であり反論は許しません、2:誰でも絶対に結果を出すことが出来るはずである、3:結果を出せないとしたらそれはあなた自身に問題がある、という考えに貫かれている。これは経営者にとって魅力的な研修であるが、社員にとっては必ずしも有意義なものではない。
というのは、この研修は、社員の能力を査定し、うまくこなせなかったものを「使えない社員」として切る口実に利用できるが、社員にとっては、彼女が期待した成果をあげられないことで、社員としてではなく人間としてダメであるかのように批判されるからである。罪と罰のバランスが悪すぎるのである。
もちろん企業はボランティア団体ではないので、使えないダメ社員が冷遇されたり、場合によっては解雇されることもあり得る。しかし、そのダメ社員はその会社のその職場にあっていないだけかもしれないのであって、ダメ人間かどうかは別の問題である(なお、私はどんな職場でもパッとしない人がいる可能性は否定しない)。
研修後その企業の売り上げが必ずあがるらしく、彼女のやり方は正しいものと受け止められており、番組も大反響らしい。経営者であれば売り上げ上昇につながることは正しいことであるが、視聴者のほとんどは雇われる側のはずで、彼らからも大いに支持されているとしたら、それは社会の懐が小さくなっているように思える。
番組の評判が良いということは、平林流を受け入れ「使える人間」と認定されることが「良いこと」とされているということに他ならない。しかし現実に、パッとしない、冴えない人たちは存在しているのであって、平林流の研修(あるいは平林的価値)は彼らを評価する軸を提供していない。
人を、使える人と使えない人に分断していく番組に大きな支持が集まるような社会では、使える人間と思われようという大変な圧力が発生し、それは多くの人にとって、大変なストレスになっているはずである。お辞儀の角度と時間が、人間性に直結すると考えるような社会が健全であるはずはないのである。
by eastriver46
| 2010-03-19 23:46
| 日記